受験の失敗と偏差値というラベルが与える弊害を乗り越えるために

受験を主戦場とする学習塾をはじめて3年目を終えようとしている中、偏差値主義的な受験教育が生み出す空気感にモヤモヤすることも多くあります。

自分が教育を志した最初のきっかけは「自分の頭で考えて、自分で人生を切り開く力を身につけられる教育を作りたい」ということでした。

マジョリティが「良い」という大学や会社に入った方が、「選択肢が増える」という点においては同意です。自分がどう思うかはおいておいて、みんながかっこいいというブランドの服を着るのと同じこと。ただ、そこにいくことが究極の目的のように捉える空気に違和感を持ってしまうのです。それがゴールであれば、ゼロサムゲームの世の中のようで苦しい。「良い高校」や「良い大学」は手段であり、目的ではないと思うのです。

私の仮説は、同じ高校・大学を目指すとしても、その目的意識を丁寧に育むことで、全く違う将来が待っているということ。例えば、2人の高校生がいて、同じくA大学の理工学部を目指すとします。1人は「偏差値が高く、学校の先生におすすめされたから第一志望」もう1人は「理工学部で物理情報の研究をしたくて、より良い環境で学びたいと思っていたから第一志望」。おそらく前者の学生は落ちたら「負け」と捉え、後者の学生は別の大学にいこうと物理情報の研究に打ち込んでいたことでしょう。ちなみに、前者が過去の自分、後者が大学で出会った友人です。友人は第一志望に落ちて進学してきましたが、とてつもない熱量で学問に励んでいました。いまは(たぶん)大手の自動車部品メーカーの研究所で研究に打ち込んでいます。その後の学びに対する姿勢や取り組みの主体性に、大きな大きな差があったことは言うまでもありません。私は自分のような目的意識が低く大学に通う意味を見いだせない大学生ではなく、彼のような自分なりの意味と目的を持って学ぶ人が増えてほしいと思います。偏差値にとらわれるのではなく、自分が何をしたいのかに意識を向けられる人です。その結果として偏差値の高い大学の方が良い環境が揃っているから目指すことになる、という順番です。その物事の捉え方が、後の社会人生活にも続くと思います。

日本の子どもの自己肯定感は先進国最下位!? 子育てで心がけたい「親の姿勢」3つのポイント

また、日本の子どもの自己肯定感は先進国最下位というデータは教育業界にいるとよく目にする話です。この記事にあるような偏差値教育が原因の一つではないかという仮説は、現場にいると感じるものでもあります。「勉強の出来不出来」で、周りの大人の関わりが変わり、自己肯定する力にあまりに影響を与えすぎてしまっているのではないかということです。

それからNews Picksで宮台真司さんが以下のようなことを語っていました。

育ちあがりによってみんな”異質な考え方”や”価値観を持つよう”になれば「今の日本って随分と変わる」と思うよ。基本的に同じ人間、つまり同じだと思うわけですよ。しかも、思いやりがない状態でそうすると、すぐ嫉妬するし、すぐ足を引っ張るわけでも、「お互いに全然違うと思ったら嫉妬しなくなる」じゃないですか?日本人的、同質性、同質観念というのは何かと足を引っ張る同じ集団の中での座席争いをするんだけどその座席争いの感情は”嫉妬”なんだよね。

このような論にも、なるほどなーと思う節があります。単一の評価軸の受験で座席争いをし、受かった人が「勝ち組」落ちたら「負け組」。そんな空気感が嫉妬の感情や自己否定の感情を生み出しているようにさえ思ってしまうのです。

そんな中、自分はその偏差値競争を助長するような受験産業で、受験に対する捉え方を変えたいという思いでささやかな抵抗をしているつもりです。もちろん塾として、受験に合格できるように目一杯のサポートをします。でも合格する人も不合格する人もいるのが受験です。受験に成功しようが、失敗しようが、人生は続きます。競争の序列づけをする手段としての要素が強くなりすぎてしまった受験や勉強のあり方を、学びや成長を楽しむという本質的なあり方に戻せないだろうか、挑戦や挫折を経験しながら自己を肯定し前向きに生きる力を育むきっかけにできないだろうかと、ずっと考えています。

社会で生きていくために、あるいは自信を育む上で、学力を高めること・受験の成功を追い求めることは役に立つと思います。でも、その結果だけで自己評価してしまうのは息苦しい。もちろん、高い目標を掲げて頑張るのは良いことで、その分だけ絶対成長します。たくさん失敗して失敗から学ぶべきです。でも、その結果で「負け」みたいに捉えてしまうのはとても悲しい。

最近、ただの受験塾ではダメだと思っているんです
受験の合否で、一緒になって一喜一憂し過ぎることが、既存の偏差値・受験偏重の価値観の浸透に知らず知らずのうちに加担してしまっているのではないか。第一志望に不合格だった子が、居づらい場所になっていないだろうか、と。

主体的な進路選択をテーマに塾を運営していますが、それが叶わなかったとき、なにをしてあげられるだろうか。そのときに、その子たちに残る価値観はどのようなものだろうか。と考えます。

せっかくC.schoolに通ってくれて、残るものが「結果」だけだったら寂しい。

どこにいくかではなく、何をやるかやどう捉えるかに意識を向けられる人を育てたい。もう少し具体的にいうと、大学に入ったときに、どこの大学であろうが、自分なりの志や夢を持って学問に励める人を育てたい。社会に出たときに、自分らしく生きる人を増やしたい。と思っています。

主体的な進路選択をテーマにしてきましたが、それだけではダメだと感じています。受験に落ちてから励ますような声をかけるようでは時すでに遅し。選択や結果に関わらず、主体的に生きる力、流行りの言葉で言えば非認知能力(自己肯定感・自信・意欲 ・やり抜く力・自制心・回復力など)を育むことに貢献したい。

普段から、チャレンジの大切さだけではなく、結果が人生を決めないことを言動から滲み出る形で伝え続けること。受験勉強をモチベートするだけではなく、人生そのものをエンパワメントすること。高い目標にチャレンジする価値と同時に、学びや成長の楽しさを味わい自己を受容することの大切さを伝えられたら良いなと思います。

決して結果にこだわらない甘い人間を育てたいのではありません。結果に十分にこだわってやり抜く一方で、その結果で燃え尽きず、絶えず人生を楽しむ人を増やしたい。結果を受け入れ、柔軟に変化する強さと他者評価ではなく、自分の軸で生きていくことを大切にする価値観。座席の奪い合いの発想ではなく、自分の人生を楽しみ、他者や社会に貢献する意欲を育むこと。

その結果として、受験の勝ち負けのような座席争いで自分を蔑み、他者を嫉妬するような人間ではなく、真に軸のある人間が育ち、多様な人で溢れた社会になっていくと信じています。

人間や社会について学び、哲学すること。それらを通じて、自己と他者を受容し、自分の志に向き合うこと。それを個々との対話でやるのか、ワークショップのような形でやるのかはわからないけれど、そのような意識を持って塾運営に取り組むことで、受験の現場にいると偏りがちな偏差値主義の言動を最初の志へ戻してくれ、似たり寄ったりの受験塾から脱皮できる気がしています。そしてまた、世の中に有り余るほどの塾がある中で、自分が塾を始めた理由でもあると思います。

自分を受容し、結果の有無にかかわらず、チャレンジを続ける子どもたちになってほしい。そんな前提を持った上で、受験でも高い目標にチャレンジしていってほしいなと思います。

高い目標を持って、勉強をめちゃくちゃがんばって、学力を上げる。そこにコミットする。その結果、第一志望校に入れれば万々歳。同時に、落ちてしまっても、決して否定されない空気(むしろチャレンジしたことを全力で肯定する空気)と結果を受け入れ次に向けて前を向ける力を届けていきたい。

具体的には考え中ですが、通ってくれた子どもたち、保護者の方々の人生に残るようなものを生み出したい、と沸々と湧き上がる思いを持っています。 しばらく止まってた特別授業も再開しようかなーと思っています。