子どもに答えを求めず、環境づくりに専念して、信じて応援する

最近、改めて大事だなと思っていることは「他人の意志を誘導しない」ということです。特に、我々大人は子どもの意志を誘導しがちだと思います。自戒を込めて、大人が子どもに答えを求めすぎる危険性と私たち大人が意識すべき役割について書きたいと思います。

例えば、「◯◯くんは、〜〜したいんだよね?」とか「〜〜した方が良いと思っているんだよね?」といった声かけ。大人からの「〜〜だよね?」は、よっぽど意志の強い子供でない限り、いちいち対抗するのも面倒だから「そうですね」ということになります。それで大人が満足するからです。これは、子どもが「〜〜したい」のではなく、明らかに大人の側が「〜〜してほしいと思っている」(その通りに子どもが動かないと不満になる)というエゴの方が強い。

このコミュニケーションの危険なところは、子どもが自分の考えを主張することをやめていき自分の人生を歩む力が育まれず、その場凌ぎのコミュニケーションが繰り返されるところにあると思います。人間の幸福度は、学歴でもお金でもなく、「自己決定にある」という調査もあります。

「あなた勉強したいと思っているんだよね?なぜやらないの?がんばりなさい」「はい。がんばります」のコミュニケーションからは実際にはほとんど何も生まれず、むしろ、一人の人生の主体性を奪っているようにも感じます。

「(自分が安心したいがために)子どもに答えを求める」よりも、私たち大人は「もっと高い視座から見守ること」と「環境を用意すること」に意識を向けることが重要だと思います。

例えば、上記の例で言えば、「あなた勉強したいと思っているんだよね?」「いやー、どうだろう。別に」という返事が返ってきたとします。そのときに「勉強しなきゃいけないでしょ」と怒り出すのではなく、なぜその子がそういう返事をしているのかを考える。そこにヒントがあるはずです。私は子どもがどう答えるにせよ、本質的にはほとんどすべての子が「できるようになりたい」と思っていると考えています。

自分たち大人だって、彼らと同じように子どもだったことがあるのだから、そのときの気持ちを思い出して、彼らの言葉を俯瞰して受け入れてみる。その上で、重要なのはその子が勉強を進めていく環境を用意すること。相手の意志を規定したり、変えたりするのではなく、相手がよりよく生きられるように環境を用意してあげることが大事なんじゃないかと思います。意志やモチベーションという目に見えないものは移ろいやすく、環境の影響を多分に受けるものです。

これは私が学校教員時代に感じたことです。最初の頃は子どもたちに答えを求めがちでした。「勉強したい」とか「将来◯◯になりたい」とか、答えらしい答えを言ってくれることに安心していたのです。でも、そんな気持ちも事実も移ろいゆくもの。逆に「勉強したくない」と表面的に言っていた子が、心の中には負けたくないという思いがあって、環境を与えるとめちゃくちゃ勉強し出したりするんですよね。

みんな「やらなきゃいけない」とか「やった方が良い」とは思っている。だけど、押し付けられたくないというのが人間だと思います。だからやっぱり我々大人がやるべきことは、押し付けるのではなく、押し付けられなくてもやりたくなる環境づくり。「勉強しなさい」ではなく「勉強した方が良い環境」「しないとやばいと感じる環境」を作ること。

子どもから心地よい答えが返ってくるのを期待する自分のエゴをグッとこらえて、その子の未来を信じて環境づくりに意識を向けること。大変だけど、それが大人の役割なのかなと思ったりします。

最近、高校生の子に「”〜〜さんは、・・・だと思っている”と私は思っているんだけど、本音はどう?」と聞くと、ちょっと自分の認識とズレた答えが返ってきて思ったのでした。