私たちが使う言葉と使わない言葉

「なりたい自分に出会える塾」を土台のコンセプトに定めている私たちが創りたい教育現場としては、「子どもたちが自分で選択を重ねていく塾」。

子どもたちが「自分で決めること」を大切な価値観として、サポートを行なっています。自分で決めて行動することが、主体的で豊かな人生を創ると信じていますし、また、社会に出ると主体的に決めて行動していく人材が求められていると感じるからです。

私自身が中学校のときに所属していた野球部では、軍隊のような教育が行われていました。監督(先生)の指示通りに動けないと、怒鳴られ、時に体罰を受けるような部活でした。それ以来、言われたことをそのまま行動したり、大人が望むことを察して行動することをうまくやっていくようになりました。しかし、大学に入ると、突然、自分でやるべきことを考えなければならなくなります。就職活動に至ると、「あなたは何者なのか?」「あなたは何をしたいのか?」を聞かれるようになる。だれかに言われたことをこなすことが求められる子ども時代から、自分で決めることが求められる大学生以降に大きなギャップがあると思うのです。

だからこそ、「自分で決める」経験を積み重ねてほしい。そんな想いが強くあります。特に、人生でも大きな選択となる進路選択こそ、自分で決断してほしい。もちろん、私たちは情報提供や選択の観点を提供し、一人ひとりの考えの整理に協力し、半歩先・一歩先を照らす存在であるつもりです。私たちは学習塾として勉強を教えることを生業にしていますし、一教育者・大人として子どもたちの成長をサポートする義務があるので、勉強も、いまやるべきことも、たくさんアドバイスします。でも、最後の最後の決断は「自分で決めた」という感覚を持ってもらいたい。そういう瞬間を増やしていく教育現場を作りたいと思っています。だれかに決めてもらった成功体験は、結局は自信につながらず、だれかに決められた失敗体験は、自分の人生を他責にして生きていくきっかけになってしまいます。だから、私たち大人は、最大限のサポートをしつつも、子どもたちをコントロールしようとしてはいけないと思うのです。

そもそも、自分がだれかにコントロールされていると感じたときを思い返したり、あるいは、強制の強い教育を今まで見てきて思うことですが、コントロールしようとすればするほど、短期的あるいは中期的にネガティブな方向に働くことがほとんどのように思います。これは大人でも同じことだと思います。
最近聞いた言葉で、感心した言葉で「人間、性善なれど、弱し」という言葉があります。人間だれしもが善くなりたい、善く生きたいと思っている。でも弱い。だからこそ、善くなりたいと思っていることに光を当て、弱さを防ぐような仕組みを一緒に作っていくことが重要だと考えています。

すごく具体的には、高3生には何度も何度もスマホをいじることへの警鐘を鳴らし続けていますし、それを踏まえて親に預けたり塾には持ってこないようにしている子もいます。
ちなみにプロ野球選手ですら、スマホ依存から脱却するのは大変のようです。そして、「ガラケー」に変えて大活躍した選手がいます。
真のエースになるため「スマホ断ち」した西武・高橋光成

話が逸れた上に、前置きが長くなってしまいましたが、このような想いがあるからこそ、私たちには使う言葉と使わない言葉があります。

例えば、「指導する」「〜をやらせる」「管理する」という言葉は使いません。一方で、これらの言葉は、「できるようにする」「情報を提供する」「人としてあるべき姿を伝える」「機会を創る」「カリキュラムをつくる」「一緒に考える」というような言葉になります。行動の対象を直接的に塾生にしないのは、強制的に塾生を変えようとするのではなく、塾生が変わる機会を創ること、変わりたいと潜在的に思っている子どもたちが変われる機会を創ることやその背中をそっと押せるような関わりをしていくことが大事だと考えているからです。「子どもたちを強制的に変えるために〜をする」のではなく、「子どもたちが変われる機会をつくるために〜をする」のです。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
(マザー・テレサ)