「どっちでもいい」をやめると自分の人生を生きられる

塾の中で言えば、座る席、勉強の計画、教材、etc プライベートで言えば、今日食べるもの、今日いく場所、休みの時間の使い方。私たちは毎日無数の選択を繰り返しており、人は「朝起きて布団から出る出ない」から始まり、1日35,000回以上決断をしているという研究もあるそうです。

無意識的な決断はさておき、だれかに「どうしたいか」を聞かれて「どっちでもいい」と答えていることは多くないでしょうか。かく言う私も、「どっちでもいい」を繰り返してきました。ここでは特に詳細は書きませんが、大学1年生のときに「優柔不断」の烙印を押され、「どっちでもいい」をできるだけやめようと決意したことがありました。それからたくさんの決断を繰り返してきて気付いたことは、「どっちでもいい」をやめると、思考の体力と決断する力がついていくということです。そして、あらゆる機会や場所で、少なくとも自分なりに納得できる答えを出せるようになっていきます。

「どっちでもいい」というのは思考停止している状態で、決断をだれかに委ねるのでとても楽なんです。一方で、自分でどちらかに決めるということは、その決断の目的に立ち返り、評価軸を決め、評価をし、メリット・デメリットを精査して、リスクをとって決断しなければなりません。一方を取るということは、もう一方を切り捨てることであり、「あっちにすればよかったのに」と自分が思ったり、他者に言われたりするリスクは常に孕んでいます。だから、そこまでの思考と後悔のリスクから逃れることのできる「どっちでもいい」は自分を守るための最強の武器です。しかし、正解のない世界で、自分なりの正解を作り出しながら主体的に生きていくためには、できるだけ「どっちでもいい」を避け、自分の覚悟で選択していく癖をつけるべきだと私は考えています。

例えば、「何食べたい?」に対して「なんでもいいよー」は一つの答えであり、これはこれで悪くないのですが、一周自分なりに考える癖をつけたほうが良い。まず「何食べたい?」と聞いている人がだれでどのような意図で聞いているのかを考える。例えば、質問者が親だとして、子どもが食べたいものを用意したいと考えているとする。そうしたら、本気で自分が食べたいものを考える。評価軸を考える。「好きな食べ物を食べたい」かもしれないし「最近食べてないものを食べたい」かもしれないし「健康的なものを食べたい」かもしれない。その上で、今回は「健康的なものを食べたい」であれば、ナスのおひたしや肉じゃがをお願いすれば良い。一周考えた上で、「なんでも良い」はあり。聞かれた瞬間に「なんでも良い」と答えるのと、一周考え抜いて「本当になんでも良い」は、その人の人生にとってまったく意味が違うものになってくると思います。

ちなみに、どうでも良いですが、これ私が最近実家に帰ったときの話で、「外食は飽きたから家の料理を食べたい」までに留まりました。父親の得意料理、茄子の揚げお浸しとまで言いかけたのですが作るの大変かなと思ってやめました。「外食飽きたから、健康的な家のご飯が食べたい。茄子の揚げお浸しが食べたいと思ったけど、揚げるの大変そうだから、家のご飯ならなんでも良いです」まで言えればよかったといまは思いますが、思考をさぼりました(笑)

他にも、塾に来て「席どこ座ってもいいよ」と言われたときに、「今日は先生に質問がたくさんありそうだから聞きやすいところにしよう」という選択軸を持てば、先生の近くに席を選ぶだろうし、「気が散らない席にしよう」であれば、友達から離れた席を選ぶことができる。これを自分で決めることが大切です。なぜなら、多くの場合、一つの選択には、負の側面が伴い、それも自分の責任で引き受ける癖をつけていくことが他責にせず、自分の人生を生きていく力になるからです。

めんどくさいなーと思うかもしれませんが、実はこういう小さな決断の瞬間をどう扱うかが、日々の勉強(大人で言えば、仕事)の姿勢に出てきます。試験勉強を進める順番からやるべき教材まで「どちらでも良い」ではなく、「暗記形は寝る前の方が良いから先に数学をやろう」と考えて選択できるようになる。仕事で言えば、「どちらでも良い」ではなく、「こちらの選択にしたほうが、この観点で少なくともポジティブな影響があるのではないか」と考えて選択できるようになっていく。ネガティブな影響を自分の決断で引き受ける癖もついていく。

そして、その積み重ねがきっと人生を左右する大きな選択につながっていく。

例えば、大学・学部選び。私には、その力が圧倒的に不足していました。正直「学部はなんでも良い」と思って選択して後悔していた時期がありました。でも、それは「なんでもよい」と思っていたと言うよりは、そもそも「考えることがめんどくさかった」のだと思います。情報も少ないし、先生たちも理工学部は潰しが効くから良いと言ってるし、父親と同じ学部・学科だし、まぁいいか、と。自分の責任で自分の選択すべてを受けれいる覚悟も足りなかったのかもしれない。本来は、納得いく選択軸を持って、情報を集めて、自分なりの理由を持って選択をしていくべきで、最近はやっとそんな覚悟ができるようになってきました。

でも、やっぱり子どもたちには、高校選択や大学選択は後悔してほしくないし、この大きな決断を機に、自分の選択に向き合って欲しいと思っています。そのために、日々の小さなところから考えて選択する癖をつけて欲しいし、そんなきっかけや関わりをしていきたいです。

ちなみに、私が中学校教員時代に毎日英語のプリントに印刷していた文字が「自分の選択 × 自分の行動 で 自分の未来をつくる」。塾を創業したときに掲げたビジョンが「子どもたちの主体的な進路選択の実現」。選択をするプロセスにこだわりたい。最終的には、選択したものを正解にしていく行動をとることが重要なので、選択そのものには意味がないと思っているのですが、選択をするまでに考え抜いて、自分の責任で選び切り、選んだものを正解にしていく一連の流れにこそ、主体的な人生をつくっていってくれると信じています。

ということで、自分の人生を歩む第一歩、「どっちでもいい」をやめることはおすすめです。

…まぁ、考えるのがめんどうなときは、「どっちでも良いよ」って言っちゃうんですけどね(笑)