こんばんは。かざまです。
1ヶ月以上更新が空いてしまいました。ありがたいことに、一定数アクセスしてくださっている方がいらっしゃるので、これからは毎週水曜日に「塾運営者(教育現場を作る者)として」「塾の先生(教育者)として」の自分の考えを書き残していきたいと思います。(宣言!)
さて、今日のテーマは「自分の子どもを預けたいと思う塾は?」です。すなわち、それは塾のビジョンです。私には子どもがいないので、経験を伴う形で子育てに共感をすることはできません。その代わり「もし自分に子どもができたら、この塾に預けたいだろうか?」「もし自分に子どもができたら、自分のような講師に預けたいだろうか?」ということをたくさん考えます。もし、その答えが「NO」であったとき、塾を閉めますし、教育者の役割を辞める覚悟でいます。
もし私に子どもができて、どこかの塾に預けるとしたら。3つ条件があります。
① そこにいる大人は、子どもを真っ向から否定しないか。
② そこにいる大人は、子どもの課題を解決することに本気で向き合ってくれるか。
③ そこに通わせると、子どもの笑顔が増えるか。
それぞれについて少しだけ考えを書いてみたいと思います。
① そこにいる大人は、子どもを真っ向から否定しないか。
私は、「幸せに生きていく」ために最も必要な力は「自分を肯定する力」だと考えています。どんなことがあっても、自己否定に陥らず、自分を受け入れることができるかどうか。
例えば、何かに失敗をしたら振り返り反省する必要はあるでしょう。でも、「自分は生きる価値がない」とまで思ってはいけません。どんなことがあっても、一人ひとりの人が生まれたことには意味があり、一人ひとり生きていることが大切にされるべき存在だと信じています。だから、自分を大切にしてほしい。
そして、これはナルシズムとは違います。自分に自惚れるのではなく、ただただ、あるがままの自分を受け入れ大切にすることです。弱い自分も含めて大切にできたとき、他者の弱さも受け入れられるようになるのだと思います。
これは何にも変え難い力であるにも関わらず、育むのが難しいものでもあると思います。難しいというのは、明確で決まったやり方がないということです。勉強とは違います。東大に行きたいなら、東大に行くためのカリキュラムは山ほどあります。でも、自己肯定する力を育むカリキュラムは、私の知る限りではみたことがありません。
ただ、私なりに一つの仮説があります。
それは、「関わった大人が、その子を一方的に否定しないこと」です。
例えば、テストの点数が悪かったとき、「お前は数学が全然できないな」と悪気なしに言ってしまっていませんか。 宿題をできない日々が続いたとき、「あなたはいつもやるべきことができないのね」と悪気なしに言っていないでしょうか。
悪気の有無に関わらず、このように人格や能力の否定にさらされ続けると、「自分はやっぱりダメなんだ」という「自己否定力」が育まれていってしまう、と私は思います。
否定しても仕方ないことを否定しないで見守ること。
改善すべきことは一緒に改善方法を考えること。
それこそが大人の役割ではないでしょうか。
例えば、テストの点数が悪かったとき、「お前は数学が全然できないな」ではなく、「なぜできなかったんだろうね。本当はどうしたらよかったと思う?」子どもの声をまずは聞く。その上で、「私は、私の経験からこういうやり方の方が良いと思うけどどう思う?」と、あくまで自分の経験に基づいて「アイメッセージ」で伝える。信頼関係がきちんとできていれば、必ず子どもたちには伝わります。同じことを伝えていても、「君のやり方はダメだから、〜〜〜しなさい」という一方的に”あなたを否定”した伝え方をとった場合、たとえ同じように「数学の点数アップ」という結果が得られたとしても、その子の自己否定力も同時に育んでいる。と私は思います。プロセスが大事なんです。
そういう意味で、私は親に恵まれました。能力・人格を否定されたことない。小さいとき、親戚のおばさんに「頭がでかいよね」と身体的な特徴を否定されたとき、母親は「そうかなー。別に気にならないけどね」と言っていた。これがもし「あなたは頭がでかい子ね」と言っていたら、コンプレックスになっていたと思う。野球の試合でヘマしても、父親はいつも「結果は仕方ない。一生懸命やったんだから」と言ってくれた。もし「なんでいつも大事なところでミスするんだ」と言われていたら、挑戦することにビクビクして生きていたと思います。歌が下手でも、人見知りでも、友達と喧嘩しても、一方的に否定されることがなかったから、いまの自分を受け入れることができている。いま振り返るとそう思います。
残念ながら、一方的に否定する教育者の方々も目にしてきました。そういう瞬間を見ると、絶対にこうなってはいけないと思うんです。子どもたちには自分を肯定できない人にはなってほしくない。そういう気持ちを自分の芯に据えて、常に子どもたちとは関わり続けたいと思っています。「相手を一方的に否定しない」ということは、「何を言うか」にとどまらず、その人の存在が発するメッセージも含まれます。自己を肯定して生きていく力を育むためには、そういう人たちに囲まれる必要があります。
「この人は、私を否定せずに、成長させてくれる存在」と”感じられる”自分を目指していきたい。そして、そんな仲間で溢れた塾にしていきたいと思っています。
② そこにいる大人は、子どもの課題を解決することに本気で向き合ってくれるか。
①で書いた「子どもを否定しない」ということは、「甘やかす」とは違います。私が子どもを預けるとしたら、子どもの課題と向き合ってほしい。いつも子どもが言い訳ばかり言っているとしたら、「言い訳に逃げてしまう」という課題と向き合ってほしいです。「言い訳に逃げてしまう」子どもたちも「もっと良い自分になりたい」と思っているのが普通です。
「客観的な事実」や「客観的に見えている状態」を真っ直ぐに伝え、子どもたちより経験を多く積んでいる大人だからこそ伝えられる「こうした方が良い」というアドバイスを繰り返し伝えていく。そして、何度も「いまの自分で本当に良いの?」と確認する。子どもたちの中に、自分自身と向き合う問いを残し続けていく。時に、子どもたちは叱られていると感じることがあるかもしれません。でも人格や能力は決して否定しません。より良くなるために、やるべきことを淡々と伝え続けるんです。
これは本当に大変な関わりです。私自身、担当する子どもたちに何度伝えても、中々変化が起きず苦しんでいることも事実です。それでも、教育者がその課題から目を背けないことが重要だと思います。
諦めずに課題解決のための関わりを続けていると、突然変化が起きることがあります。それは単純に、子どもたちがさまざまな外部からのインプットを受けて変わるのかもしれないし(例えば受験が迫ってることを実感する機会がある、など)、深く自分の人生について考えるタイミングがあったのかもしれない。人間は、入力と出力が決まっている機械のように、単純なものではないから、何がきっかけで変化したのかはわかりません。おそらくさまざまなインプットが複合的に絡み合って変化するのでしょう。だからこそ、「よく生きるために解決した方が良い課題」をしっかりと伝え、向き合うきっかけをさまざまな角度から届けていくべきだと思います。
例えば、C.schoolでは、子どもたちへの直接的な働きかけが行き届かないときは、保護者の方も巻き込んで三者面談をしたりもしています。中々、簡単に人は変われない。それでも、周りにいる大人が諦めずに関わり続けることを大切にして塾を続けていきたいです。
また、もちろん塾なので「学力向上の課題」に向き合うのは当然のこと。「◯◯高校にいきたい。でも学力の課題がある」のであれば、徹底的にその課題と向き合うこと。足りないものから目を背けないこと。そして、もちろんC.schoolは絶えず、これらの課題解決力を磨き続けています。
③ そこに通わせると、子どもの笑顔が増えるか。
自分に子どもができたら、これも大切な要素の一つです。子どもには笑顔あふれる人生を送ってほしい。もちろん、時に歯を食いしばり、涙を流す瞬間があっても、最後は笑顔になれる場所で時間を過ごしてほしいと思います。
だから、私は「楽しさ」を意識して子どもたちと関わるようにしています。それは、一緒にふざけてゲラゲラ笑いを共有するfunの楽しさもあれば、将来のことを真剣に考えたり、学びを共有することで出会う「この学問おもしろい!もっと学んでみたい!」だったり「未来にワクワクする!こんな自分になりたい!」だったり、そんなワクワク感溢れるinterestingの楽しさもあります。
「楽しさが不足していて、笑顔が増えない場所」は、いずれ「行きたくない場所」(もしくは、「ただ行かされている場所」)になってしまうと思います。そんな場所で過ごす時間が多かったら、やっぱり人生おもしろくない。もっと楽しい人生を生きてほしい。だから、私たちもfunとinterestingを追求し、「笑顔が増える場所」を作っていきたい。そして、私たちは「いまこの瞬間の笑顔」にとどまらず、自分たちと出会うことで「未来の笑顔」が増える場所にしていきたい。そう思っています。
以上がいまの私が考える「自分の子どもを預けたいと思える塾」「自分の子どもを預けたいと思える講師」のあり方の3つの要素です。書き出したことに恥じない自分、恥じない塾であれるように精進します!