偏差値だけに捉われない方が良い

こんばんは。かざまです。

私たちの子どもたちとの関わりの特徴として、突拍子もなく「将来の夢ってあるの?」とか「高校/大学にいったら何したい?」など、聞くことがあります。「主体的な進路選択をしてほしい」という思いが根本にあるからです。もちろん「ない」のが大半であることが前提です。自分が中学の時は「将来の夢、サラリーマン」「高校行ったら、遊びたい」そんな感じでしたし、いま「10年後どうしたい?」って聞かれたら、「うーん、笑ってたい」という感じ。だから、自分を棚に上げて、ドリーム・ハラスメントをしないようには気をつけています(笑)まだ準備ができていない子に執拗に迫ることはしません。

でも、この仕事を通じてわかったことは、周りの大人が面白がって一緒になって真剣に考えることで、動き出す子どもたちが出てくるということ。真剣に聞かれて、一緒になって考えてくれる人がいて、はじめて考え出す。「ないのか、考えなさい」ではなく、「どういうことに関心があるんだろうねぇ」と言って話を聞く。そうすると少しずつ話してくれる子も多いものです。みんな自分の人生には関心があるはずです。でも意外とその関心を本気で深堀していく機会は少ない。だからこそ、主体的に生きていくきっかけとして、真剣に考える機会があること、真剣に聞いてくれる人がいること、そんな「環境」が大事なんじゃないかと思うんです。特に対話ですね。

というわけで、意識的にそんな会話をするようにしているのですが、一方で表面的な会話に終わると、わかりやすい指標のみでなんとなく選んだ気になって終わってしまう危険性も感じています。その典型が「偏差値だけに捉われた選択」かなと思います。高校生と話していて「偏差値の幻想」に捉われすぎているような気がしたので、考えを書いてみたいと思います。

前提としては、志望校が決まっていなければ、最初の志望校選びの入りとしては、いまの自分の偏差値よりも高い偏差値の学校から見て欲しいとは思っています。よっぽど明確な基準がある子でない限り、偏差値は選択肢を洗い出す上ではわかりやすい指標です。それに、偏差値を伸ばすには努力しなくてはなりません。その自分の能力を引き伸ばす経験は人生の糧になります。

また、綺麗事だけではなく、いまの社会で自分が見聞きしてきた経験をもとに言うと、偏差値が高い学校を卒業するだけで得をすることもあります。偏差値が高い高校に行くと指定校推薦の枠が多かったり、大学では就職の選択肢が増えたりと、自分に対する信頼を担保してくれるような存在でもあります。だから、色々学校を見に行ってみて、本気で考えてみて、「いやー本当になんでも良いっす」って感じだったら、とりあえず自分が目指せる一番難しいところを目指すのも良し。せっかくの受験、本気で勉強した方が良いですから。だから、甘えてないでとにかく勉強してトップ目指せ!という考えも大いにありだと思っています。

(ところで、今回は普通科で大学進学を目指す人を前提に書いています。商業高校、工業高校、高専など、学力偏差値に依存せず、専門的なスキルで道を切り開いていく人生もあります。教員時代の教え子も科学技術系の高校に進み、納得のいく就職先が見つかったそうです。立派ですよね。)

一方で、偏差値が高い学校に行ったから幸せかというと必ずしもそうとも限りません。

中学時代成績がほぼ同じだった両国高校に進学した友人が、「部活は少ないし、勉強が大変すぎる。小松川くらいにしておけばよかった」と言っていたことが強く記憶に残っています。大学受験も途中で燃え尽きてしまったそうです。一方で、私は小松川高校に進み、野球も勉強も良いバランスで取り組めたため、野球に本気で取り組みながらも勉強につまずくこともなく、自信をつけることができました。自己正当化っぽいですが、自分は自分に合った高校に(たまたまですが)入れて本当によかったと思っています。偏差値は高い両国高校に進んでいたら(進めていたらですが)、キャパオーバーで潰れていたかもしれません。これは、両国高校より小松川高校が良いとお勧めしているわけではなく(笑)、偏差値の違いに捉われ過ぎず、自分が望む環境を選んだ方が良いのではないかということです。大学で出会った両国出身の友達は両国でよかったといっていましたから。
逆に、小松川に来て「部活の時間が短すぎる」と嘆くのであれば、城東高校でスポーツに力を入れる選択肢もありかもしれないですよね。大学進学実績だって数は違いますが、両国も小松川も城東も、ある程度同じレベルの大学に進学している子がいるのだから、どこに行こうが本人の努力や塾などの環境をうまく使うことで変えられる部分は大きいでしょう。ちなみに、小松川高校より偏差値の高い戸山高校に進んだ中学の同級生が大学で同じ学科でした。それぞれが自分らしく充実した高校生活を過ごせるところを選んで、手にした自信を武器に大学進学できたら最高ですね。

大学の選択も同じだと思います。大学の友人で、難関国公立に受かったけれど、学園祭が盛り上がるしモテそうだから(笑)という理由で私学に進学していた友人がいました。宣言通り、大学生活を謳歌して(勉強もきちんとして)いました。その理由が良いかどうかは別として、自分が納得する悔いのない選択をすることが大事だと思うんです。それに理由の良し悪しなんて、最後は自分にしかわかりません。偏差値の多少の違いに捉われすぎず、むしろ、自分に合う学校を選んだ方が良いように思います。もちろん、高校生では気づきにくい研究環境に違いがあったりもするので、そういうこともリサーチしたり、自分ではまだ見えていない観点を先生に教えてもらったりしながらということですね。そう言う意味で、我々塾としては、本人が見落としている観点が減るように、できるだけ多様な観点を提供したい。高校や大学のことはもちろんですが、もっと大きな視点で、社会のことをきちんと勉強し続けて話ができるようにありたいものです。

ところで、これって大人に置き換えてみるとどうなのかなーと考えてみると、偏差値とお金が似ているかもしれないと思いました。お金は生きていくために最低限稼ぐことは必要ですが、仕事はお金だけではない、と思っている人も多いはず。例えば、年収がちょっと高い仕事で超激務 vs 年収がちょっと低い仕事で毎日定時で自分の強みが活かせる仕事だったら、どっちを選ぶことが幸せでしょうか。これはその人のライフステージや手に入れたい環境、キャリアプランによって変わってきますよね。でも、近視眼的にお金だけに捉われていたら、ちょっとだけ高い年収と引き換えに疲弊した日々が待っている可能性もある。おまけに5年後には、ゆとりのある生活で学びに投資した後者の人が、年収も逆転しているかもしれません。

偏差値も年収もより高い状態で、自分がより満足できる選択であれば、それに越したことはないでしょう。わかりやすい。でも、人間には「認知バイアス」があって、選択の失敗に気づかないこともある。「値段が高いものの方が、同じ品質でも良く見える(同じワインでも、値段が高いと聞いた方がワインが美味しく感じる)」が如く、「偏差値が高い方が、よく見える」。おまけに、はじめに言ってた学校よりも偏差値が低い学校を選んだりすると、周りも「下げた」とか言ってくるから変えにくくなる。でもそんなのは放っておいて、自分の心の声を信じましょう。周りの声なんて、自分の人生に関係ないよ。と伝えたい。

一方で、努力から逃げるように、適当な理由を見つけて、今行けるレベルの学校を選ぶということもしてほしくはないです。本当に、本当に、納得しているなら良いんですけどね!

ちょっとテーマ的に書きっぷりが難しかったですが、「偏差値が高い方が良い」とか「低くても良い」とかそんなことを書きたかったわけではなく、一つのわかりやすい指標は参考にしつつも、それだけに捉われず、また、自分にもバイアスがあることを認識した上で、一人ひとりが自分が望む未来が得られるような選択をしてほしいということです。近視眼的にならず、さまざまな観点を検討することを怠らず、受験を通じて選択する力を身につけてほしいということ。

また、合わせて伝えなければならないことは、そこまで考え抜いたからといって、最高の未来が待っているとは限らないということです。どんなに考え抜いて決めても、選んだ後のことはわからない。合わせて選んだものを正解にしていくマインドセットと行動も必要です。

でも、少なくとも自分の経験からは、どんな未来が待っていようが、その時点でできるところまで考え抜いて選択ができたと思えていれば、どんな未来が来よう悔いは残らない。また次があると思える。だから、高校受験にしても大学受験にしても、一人ひとりが悔いなき選択をできたと思えるように、何か力になれたら良いなと思う日々です。あと、基礎学力を身につけると言う点においては、志望校をどこにしようが関係なく、きちんとサポートしていきます。

とにかく、せっかくの受験という機会をなんとなく過ごしてしまわずに、みんなが納得のいく選択と納得のいく成長プロセスを歩んでほしい。選択する力と確かな学力を身につけて、次のステップに進めますように!という気持ちです。