「他人と比較しない」は正しいのか

高等部のホームページを作るにあたって、これを機に小中学生部門も含めてwebページを色々更新してみました。web上の画像や文章の一つひとつからシステム作りまで、すべて手作りでやっています。その中でも、特に難しいのは言葉のチョイス。自分たちの価値観を込めつつ、受けての方々に意図が伝わる言葉を選ぶ必要があります。システム作りは、適切なプログラムを書いたり、設定をしたりすれば形になる「答えのある問い」ですが、言葉には無数の表現方法がありますしその言葉をどう感じるかは”人による”ので「答えのない問い」であると言えます。例えば、子どもたちが受験する推薦入試の小論文や面接、あるいは志望校選びそのものも、正解は”人による”ので、「答えのない問い」です。「答えのない問い」にどう向き合えば良いか。それは、小論文なら小論文、面接なら面接、キャッチコピーならキャッチコピーの”枠組み”を学び、考え抜いて自分なりの答えを出すことです。他人にフィードバックはもらいつつ、最後は何を言われてもブレない自分なりの正解を出すまで考え抜くことが重要です。

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今回は「言葉の技術」とう本を読んで、フレームを学び、考えてみました。表紙に書いてある「思いつくものではない。考えるものである。」という言葉が身に染みました。

ということで、今回、私が考え抜いて暫定的に作った小中学生部門向けのキャッチコピーがこれです。

「否定しないで応援する。他人と比べない。一人ひとりの”できるようになりたい”を叶える塾」です。

子どもたちと接していると(いや、これは子どもに限らずですが)、自分の希望や意志を否定されることを恐れていたり、他者と比べて自分を卑下する瞬間に出会すことが多々あるからです。

否定しないで応援する

実際に、子どもが何か希望を言うと、「あなたには無理よ」「何寝言言ってんだ」と大人が子どもを否定する瞬間にも出会って来ました。でも、私はそういう瞬間に出会うと、「それ、あなたが決めること?」と思ってしまうのです。もちろん、私たち大人は、子どもたちよりも経験が多い分、見えているものが多かったり、より深く見えている部分もあります。例えば、中学3年生の2学期に「オール3」「偏差値50」の成績の子が「日比谷高校にいきたい」と相談してきたら、過去の模試のデータ等を引っ張り出して来て、合格率はほぼ0%に近い現実は教える必要はあるでしょう。一方で、同時に、頭ごなしに否定する前に、「なぜ、そう思ったのか?」を聞くことができます。「日比谷高校の◯◯プログラムが良いと思ったから」とか、「将来、東大にいきたいから」とか、その高校にいきたいと思った本質的な目的を聞き出すことができたら、◯◯のプログラムに似たものがある学校を探すことや、オール3の子でも合格可能性があって東大合格実績のある高校を探すことができるかもしれない。その子の希望や意志の本質を見出し、短期的な視点だけではなく、時間軸を伸ばして叶えられる方法を一緒に考え抜きたい。そういうスタンスでありたい。これが「否定しないで応援する。」ということに込めた意味です。

他人と比べない

また、今回、特に書いてみたかったこと(最近よく考えていること)は「他人と比較しない」の意味です。「他人と比べない」これは多くの教育関係者が言うことで、例外なく、私も子どもたちに投げかける言葉でもあります。「そんな風に他者と比較する必要はない」と。

でも、翻って自分はどうだろう?本当に「他人と比較しない」のでしょうか。いや、他人と比較していますし、比較しないで生きることは無理です。身長の大きさから、テストの点数、場合によっては性格に至るまで、ほとんどのことは他者と相対化することで、自分という人間を判断しているでしょう。自分よりも野球が上手な人がいるから、自分はまだまだ下手であると気付くし、いつも100点の人がいるから、自分はまだまだ努力が足りないと気づくことができます。

では、この「他人と比べない」と言う言葉は、どう言う意味を込めてキャッチコピーに入れたのか。それは「他人と比べて、あなたを否定しない」「他人と比べて卑下しない(でほしい)」ということです。他人と比較して自分の立ち位置を確かめることは当たり前のことであるという前提のもと、「他人と比較すること」を使って「その人をバカにしたり否定したりしない」ということ。「◯◯くんはあんなにできたのに、君はだめだね」という言葉は、自信とやる気を奪う声かけだと思っています。反骨精神でやる気になる子もいると思いますが、その場合、「親や先生を見返す」みたいな他者に依存した目標設定になり、動機付けとして適切ではないように感じます。常に敵を探さないと頑張れなくなってしまうのではないかと考えています。

一方で、「他者と比較すること」は成長する上で、大事な要素になることもあります。大河ドラマでさらに有名になった渋沢栄一の「論語と算盤」の中でも

そもそも何かを一生懸命やるためには、競うことが必要になってくる。競うからこそ励みも生まれてくる。いわゆる「競争」とは、勉強や進歩の母なのである。しかしこれは事実である一方、「競争」には善意と悪意のに種類があるように思われる。踏み込んで述べてしまえば、毎日人よりも朝早く起きて、よい工夫をして、知恵と勉強とで他人に打ち克っていくというのは、まさしくよい競争なのだ。しかし一方で、他人のやったことが評判がよいから、これを真似してかすめとってやろうと考え、横合いから成果を奪い取ろうとするのは悪い競争に他ならない。

と述べていますが、これは直感的に理解できます。

例えば、受験でも同じですね。◯◯高校に入りたい。当然、全員が入れるわけではありません。じゃあその高校を目指している子たちと比較して、自分は努力できているだろうか?自分の成績を見たときに、その高校を目指している子たちと比較して十分だろうか?それらを踏まえて、自分はどうするべきだろうか?もっとこうしよう。

このように、他者と比較することで自分の成長に変えていくマインドセットを持ち、具体的な行動に変えていけると比較がポジティブなものになっていきます。これが善意の競争。一方で、これで自分よりできる人の足を引っ張ったりするのは悪意の競争です。

模試の返却時の振り返りとかはまさに善意の競争心を持ってほしいと思って関わっています。「私はダメな人間である」と認識するのではなく、「私のいまの立ち位置はこうで、私の目標とする場所と比較すると、これだけ足りないからこうしていかなきゃ」と捉えられるように。誰かと比較して劣等感を持つのではなく、届きたい目標と比較してがんばろうと思えるきっかけにしてほしい。そういう気持ちで関わっています。

ちなみに、私自身は、あまり他人と比べない人間だと思っていました。けれど、いま振り返ると、それは具体にライバル的な存在がいなかっただけで、実際には、野球にしても勉強にしても順位や勝ち負けを原動力にがんばってきたと思います。いまはいよいよ、自分よりも優れた人は腐るほどいるけど、もはやライバルみたいな存在はいないしだれか個人と比較することもなく、自分のやりたいことや実現したいこととの距離で比較しているので、誰かに対して劣等感を持つことはありません。やりたいことや目標がわからなくなって悩むことはありますが。(笑)そういう意味では、常に「ライバルは自分」なんだと思います。こう思えているのは、妹が結婚式のスピーチで言っていたことですが、「他者と比較して否定しない」両親のもとで育ってきたからなんだと思います。そんな関わりにとても感謝しているので、自分が関わる子どもたちには、そういう関わりを届けたい。

長くなってしまいましたが、「比較してがんばりのきっかけにする」けれど、「比較して否定しない」という意味を包含しての「他人と比べない」というキャッチフレーズでした!